陸上との出会い
前回は自分を語る上で欠かすことのできない
「病気との出会い」を書きました。
要約すると、
5歳で原因不明の難病デスモイド腫瘍を右腕に患い、10年間の闘病生活で右腕が機能障害に。
15歳で切断以外の治療手段がなくなり、どうなってもいい覚悟で思い切って運動したらデスモイドの進行が止まった。
さて、
今回は「陸上との出会い」を書きます。
陸上と出会い、デスモイドとの闘病生活から一転、僕の人生は180度変わりました。
「芦田創=かわいそう」というスポットライトがなくなり、もう走ることが楽しくて楽しくて!
高校からは陸上部に入って本格的にトレーニングをスタート。ライバルは全国の高校生です。
「誰よりも速くなりたい、強くなりたい」と思うようになりました。
しかし、この気持ちの芽生えが、自分をつらくさせたのです。
その理由は、
陸上という数字の世界、他人と競う世界に身を置いたことで、自分の「障害」を痛感してしまったからです。
正直、片腕にハンデあるのって競技する上で不利でしかないんですよね笑
「あー右腕が自由に使えたらな…」
って結構悩んだこともあります。
考えてもしゃーないのに笑
本来であれば、
右上肢機能障害がもたらす、身体の左右バランスの差を考慮して、自分に合ったトレーニングを追求しなければなりませんでした。
そうでないと、ライバルと同じトレーニングをしたところで、トレーニング効果が低い上、ケガのリスクも高いからです。
しかし、高校生の僕にはそれを考えることができませんでした。
「ハンデをカバーするためには、ライバルよりもいっぱいトレーニングして、強くならないと!」
という単調な考えしかできなかったのです。
その結果、ただでさえバランスの悪い身体にムチを打ったことで、結果を出すところか、ケガだらけの高校3年間を過ごすことになりました。
一言で言えば「挫折」でした。
本気で悔しかった。
そんな中、偶然、義足のアスリート山本篤選手と出会い、山本篤選手きっかけで、パラの世界を知りました。
高3の夏に大阪で開催されたパラ陸上日本選手権に参加しました。
すると、400mで日本記録(当時)で優勝。
記録は翌年行われるロンドンパラリンピックで上位を狙える水準でした。
僕のやる気スイッチは完全に切れました。
その理由は、
健常者水準で勝負するなら挫折
障害者水準で勝負するなら余裕
初めて知ったパラの世界の競技人口の少なさ、同じ土俵で勝負すれば「おれ強いんや…」という安堵感。
もう満足してしまったのです。
上を見ようとはしませんでした。
大好きだった陸上をまた楽しみたいな…
僕の陸上は競技から趣味へと変わっていったのです。
次回は、大学での話です。
様々な気持ちの変化の中で、アスリートとしての覚悟を決めた「夢との出会い」を書きたいと思います。
読んでいただきありがとうございました!!!